諦めることが肝心です(^^)/

つぶやき

既定路線なのですから(><):

皆様こんにちは、今日は、またまた変な天気です。急激に集中的な雨が降ったりやんだりと、繰り返しています。昔ならこんな天気はなかった気がするのですが(><): これも前回の投稿にあるウオータークロックに入ったからなんですね。現在世界各国で甚大な豪雨災害にあわれております。本当にひどい限りでニュースを見るのもつらいです。

少しでも被害が少なくなるようにおじさんは、頻繁に神社にお参りに行っております。そんなことしか出来ませんが、しないよりましなんですね。おじさんのブログを見てくださる方も出来る限り神社にお参りに行ってくださると集合意識が地球に伝わるのではないかと。。。思っている次第でございます。宇宙は利他を待っているんです(^^)/

今、地球は、これまで長いこと人間の私利私欲によって汚されてしまい、とうとう大規模な自浄作用に入ったという訳でして、これは既定路線なのですね。ですから人間は、どうあがいても仕方ありません。とにかく諦めるしかないのです。それが今まで地球に感謝せず、痛めつけてきた因果応報でしかないのですから(><):

いつも「災害に対して、想定して準備して諦めてはいけません!」と言ったり,「諦める事しかないのです」と言ったり、どっちなんだとお叱りを受かるかもしれませんが、おじさんが言いたいのは、既定路線であるコロナに対しても、自然災害に対しても、怖がって不安をもってメンタル壊すような事はせずに、来る想定で覚悟するという事なんです。

しかし、それは決して何も対策せずに諦めるという事ではありません。コロナもこれから第2波、第3波と、ゆっくりと2,3年続くであろうし、今後景気の悪化も数年単位で徐々に悪くなっていくでしょう(><):これは、すでに既定路線で有り、おじさんは既に20年近く前から家族、友人、知人に恐慌クラスの景気悪化が近未来に来ることを話していました。

でも、これは「おじさんが未来が予測できる」とかいうのでもなく、そんな能力もなく、あてずっぽでもなく、聞きかじりでも有りません。資本主義の原則を理解していくと、そうなるのは既定路線だからなんです。この辺は資本主義の原則など去年一年かけてブログに投稿してありますので、ぜひとも読み返して頂けますと理解できると思います。

物凄く簡単に説明すると、資本主義経済というのは、信用創造と言って実際にある資産を担保に借金を作ることが可能です。例えばあなたが1000万円相当の土地をもっています。するとそれを担保に1000万円借金が可能ですよね(具体的にはその人の属性と担保価値により金額は変わりますが)簡単に言うとこのようにして元々無かったお金が作れるわけです。

そして、資本主義を導入している為替主要国の全資産の合計よりも、そのような信用創造で何千倍規模の借金が出来上がった訳でして(><):その虚構のお金が労働者の仕事と給与になっていたのです。ですから皆が身の丈以下で生活して、そのお金を常に分配していたら景気は変異しないのですが、我々はメディアや資本家に洗脳されていたんですね~

労働階級の我々は、未来の成長を先取りしてまで一段階、二段階、身の丈以上の借金をしてしまい、その分のお金が今度は資産として更に資本家に渡っていったという訳なんです。すると以前投稿したように資本主義経済の本質は椅子取りゲームなので最終的には一人が全ての椅子を持つんですね(><):そうなると、もうお分かりですよね。

そうなんです。数パーセントの大富豪が大多数の資産を持ち、大多数の労働者が借金を持つシナリオになるんです。そしてある時にハシゴを外されたら、今度は逆回転(リセッション)が始まるんですね(><)という事で、行き着く先は、労働者に借金だけを背をわせて、元々本来の資産額に向かっていくという訳なんです。

ですから、おじさんは何十年も前から周りに言い続けて、そして若い方にアドバイスをしたく去年一年口を酸っぱく投稿してきたという訳なんです。そんな訳で、これから下手をすると恐慌クラスのリセッションに入るので、「ローコスト生活にシフトしてください」と言い続けている訳なんです。これはもうすでに既定路線ですので諦めるしかないんです。

しかし、あきらめると言うのは、本来は仏教用語で有り、原因を追究して理解して明らかにするという意味でチャンスの言葉なんです大谷大学様より以下引用させて頂きます。

今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。
 そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。結婚というご縁にあずかった。諸般の事情を考慮してこのへんで「あきらめて」結婚に踏み切るか、わが身をしっかりみつめ、賜わったご縁を「諦めて」結婚するか、そこには大きな差がある。後者であれば、後で、こんなはずではなかった、と愚痴ることも少なかろう。
 悟りを開かれた釈尊は、その初説法で、四つの真理(諦)を説かれたという。第一の真理は、この迷いの生存は苦である、という現状認識。第二は、その苦は飽くことなき欲望から生ずる、という原因究明。第三は、その欲望の滅した境涯が苦のない悟りであること。第四は、悟りを得るには正しい八つの方法に依るべきこと、である。ここで注意すべきは、仏教が、我々の苦悩の原因を、我々の飽くなき欲望、我々の無知に帰している点である。ややもすると、我々は、自分の苦悩は、社会が悪いから、あの人のせいだからしょうがないといって、「あきらめる」ことでよしとする。逆に、それは自分の欲望、無知に基因すると「諦める」ことができれば、現状を受け入れ、解決の方法をみつけやすい。
 それでは、この四つの真理に通ずる仏教の根本道理とは何か。それは、一切は相対的な存在でしかない、と諦らめ、執着しないことである。

という訳で、とにかく変わるしかないんです。それも中途半端な変化では、今後来る大嵐に飲み込まれるかもしれません。世界的にもう元の世界に戻らないと思います。それは既に世界統一でソーシャルディスタンスを提言しています。飲食店やレジャー産業、娯楽風俗産業への推奨店などの篩をかけ始めました。

ですから、新たな尺度で大改革をすることが必要であり、実はチャンスという事なんです(^^)/

今回も長くなってしまい申し訳ございませんでした。m(_ _)m